星名宏ヒストリー
勉強など一つもせず、やりたいことをやりまくっていた幼少期、されど私の原点は、ここにあり!!
柔道少年
今は面影もありませんが、こう見えても小学校時代は柔道少年でした。当時、武道系漫画やドラマの全盛期で「柔道一直線」や「空手バカ一代」などテレビをつければ、そんなものばかり見ていました。もともと単純な私は、テレビで繰り広げられる考えられないような大技に魅了され、近所の柔道場へと通うことを決意し、日々練習に明け暮れました。
少しできるようになると、調子に乗る私は、テレビの影響から勝手に新技を作り出し実践して先生に、こっぴどく叱られたのも今となっては良い思い出です。練習は小学生にしてみればハードで、寒稽古などもあり、
少々ではへこたれないタフネスさを培う良い鍛錬の場となりました。
基地づくり名人
私の子供のころは、横浜はまだ山や空き地も多くあり、自然の中での遊び場にはことかきませんでした。そんな環境の中、私は近所の仲間とつるみ、基地づくりに没頭しました。
当時、自宅の近所は、住宅や高速道路などの建設ラッシュで、基地づくりの材料はそこら中に転がっていました。私はよくテレビに出てくるような木の上の基地や二階建ての基地を建設し、そこにはトイレや風呂(実際には入らなかったが・・・)も完備されていて、「基地づくりの天才」と異名を取り、別の小学校の生徒からも声がかかるほどでした。それは、小学生が作るものとしては、かなり完成度の高いものだったと今でも思っています。 今でも創意工夫することが好きで、治療室内装や看板などもほとんど自作で、そのスピリットはこの頃、培われたものだと思います。
今でも続ける天体観測
小学校二年の時、友人に見せてもらった「天文ガイド」という雑誌を見て、星にはまり、必死にお小遣いを貯めて小さな望遠鏡を手に入れました。当時初めて見た、月のクレーターに大感激し、それ以来、40年以上の天文ファンです。一時は真剣に天文学者になろうと考えましたが、あまりの狭き門に断念、今でも趣味として続けています。
これだと信じたものは、とことん追求する性分のようです。
バドミントンに明け暮れた青春時代
またテレビの話で恐縮ですが、中学進学当時、「エースをねらえ」というアニメが大流行し、ちょっとしたテニスブームでした。私もテニスをやってみようかと、学校のテニスコートに行ってみると、たった一面のコートにものすごい数の入部希望者が殺到しているのをみて、これではだめだと考え、同じようなラケットを使うという安易な発想で、バドミントン部に入部しました。今でこそ少し話題を集めるスポーツとなっていますが、華やかなテニスと違い、真夏でも体育館のカーテンを閉め切って、サウナのような環境で練習するという過酷なものでした。
私の中学は地区大会でも上位を独占するような強豪校で、入学当時137cmしかなかった私は、三年間、個人でエントリーできる大会以外、試合に出場することすら出来ませんでした。そんな中、私は三年間ひたすら走り続け、長距離なら陸上部員とほぼ互角に渡り合える基礎体力を身に着けていました。
やっと実を結んだ高校時代
高校に進学しても迷うことなくバドミントン部に入部しました。私が進学した高校のバドミントン部はそれほど強豪というわけでもなく、まあそこそこというレベルでした。
しかし、中学と高校ではレベルが相当違っていて、やはり自分の出番はすぐにはありませんでした。それでも必死に練習して二年生の時には先輩方を抑えて、校内のリーグ戦で全勝優勝し、第一シングルの座を獲得していました。
順風満帆に感じていた部活生活でしたが、三年生の引退試合直前に疲労から故障を発生し、県大会に進むことは叶いませんでした。そこで初めて東洋医学というものに触れることとなるのです
アルバイトに明け暮れた大学時代
当時の私はまだ、東洋医学を業として生きてこうという発想はなく、普通の大学の経済学部に進学していました。腰に不安を感じていたので、見学には行ってみたものの入部することなく、同好会に所属してバドミントンを続けてはいましたが、週に一回の練習ではハートに火が付かず、いつしかアルバイトに明け暮れる毎日を過ごしていました。コンビニの店員に始まり、運転手、八百屋、建築現場作業員、結婚式場の照明スタッフ、展示会運営、洋菓子職人、パブのボーイ、飛び込みの営業、子供たちのヒーローイベントなどありとあらゆる仕事を体験し、交通整理や引っ越しなどの定番バイトももちろんやりました。そんな中でやっとのことで単位を取得し大学卒業を控え、自分がなにをやりたいのか、まったくわからず、それを考えてこなかった大学4年間をひどく後悔しました。
時代はバブル真っただ中、望めば誰もが一部上場企業に就職できる、今では信じられない時代。私はいつまでも自分の進路を決められず、焦っていました。そんな時たまたま知り合いのお子さんの勉強を見る機会を与えられ、そこに喜びを感じました。教えるって楽しい!!自分の存在意義に飢えていた私はすぐにその選択肢に飛びつきました。
貴重な体験を沢山させてもらった専門学校教員時代
大学時代、ろくに学校にも行かなかった私は、当然、教職に必要な単位も取得しているわけもなく、教える仕事につく選択肢は限られていました。
そんな中で専門学校の教員という回答を得るのにそんなに時間はかかりませんでした。私はホテル観光系では名門と言われる学校職員としてどうにか滑り込み教員としての生活をスタートしました。
教えるものがなにもない・・・
就職1年目からどういうわけか担任を受け持ち、教壇にたってみて気づいたことと言えば「私には教えるものが何もない」ということでした。大学四年間で取った資格と言えば、自動車の運転免許位、授業もあまり聞いていなかったので、何一つ専門知識がない・・・
学生たちもそこはしっかり見ていて、いくら偉そうなことを言っても、こいつは中身がないなんてことはお見通しで、
なめられまくり、ばかにされ、他の先生方には呆れられ、クラス運営に失敗し本当に惨めな思いをしました。
一念発起 勉強しなきゃだめだ!!
「とにかく形として何かを残さなくては」そう考えた私は、学生たちが目指す旅行業務取扱主任者の資格取得を目指し勉強を始めることにしました。受験まで4か月しかありません、もう無我夢中で勉強しました。そして迎えた合格発表の日、自分の受験番号を見つけたとき、自然と涙がこみ上げてきました。そしてそのとき、「今なら伝える事がある、いや、私にしか伝えられないことがあるはず」と感じ、それを実践しました。
それからというもの周りの私を見る目が変わり、「仕事が楽しくて仕方ない」そう思えるようになりました。一年目にはまったく認められないダメ教員だった私は、三年目の卒業式ではクラスのみんなから胴上げをされるまでになり、本当に教員冥利に尽きる生活をさせていただきました。
東洋医学への想い
教員時代、私はその他の資格も多数取得し、習い事などにも通うようになっていました。
人間のからだの仕組みにも興味があり、野口整体や井本整体の道場にも足を運び、そこで現代医学にはない、人間のもつ本来の力を知るようになりました。
私は整体の勉強に没頭し始め、いつしか
この道で生きていきたいと考えるようになりました。
教員4年目を終えようとしていたある日、私は上司に呼び出され、転勤を命ぜられました。新しい学校が立ち上がるので、そこで力を貸してほしいという内容でした。四年目の若造にしてみれば、異例の大抜擢です、しかしすでに私の心は決まっていました。あと2年、今の職場で頑張って、後輩にすべてを伝えてから退職し、新たな道へ旅立とう。
しかし意外な形で、その機会は早く訪れることになりました。
治療家の世界へ
私は、まず整体の先生に相談をしました。そして先生への弟子入りを志願しました。
その時先生は、
「あなたはまだ若いから、ベースになる資格をまずは身につけなさい、そのうえで整体師になろうと思うなら、私のところへいらっしゃい」
とおっしゃいました。私は先生の言葉を受け入れ、私の目指す施術のイメージに最も近い国家資格であり、ずっと興味をもっていた鍼灸師という道を選択しました。
治療家として
鍼灸師という職業は、社会人経験という遠回りをしてきたことが、遠回りにならない世界です。事実、当時のクラスメートのほとんどが遠回りをしてこの道にたどり着き、それぞれがオリジナリティを出して施術にあたっています。私も様々な経験をベースに在学中色々な施術を学びました、私の人生の中で唯一無駄な時間を過ごしてしまったと後悔していた、大学時代のバイトに明け暮れた生活が、ここで初めて生かされることとなり、逆に私の味となりました。晴れて鍼灸マッサージ師の資格を取得し、私は、まず整体の先生のもとを訪れました。そして、
「先生、ありがとうございました。僕はこれから鍼灸師として生きていきます」と告げました。
先生はにっこりと笑って、私の手を取り、「がんばりなさい」と言ってくださいました。
短い言葉ですか、この言葉が今の私の施術家としての魂を支えてくれています。
鍼灸マッサージ師として開業
いくつかの治療院勤務を経て、私は鍼灸マッサージ師として個人開業しました。修行時代、辛いことも数えきれないほどありましたが、勤務先にも恵まれ、様々な症例を診させていただき、またプライベートでは絶対に会うことなどできないVIPの方の施術を数多くさせていただく機会を与えられ、それは私の大きな揺るぎない自信となりました。
鍼灸マッサージ師会の活動にも深く関わらせていただき、全国でセミナーを開催し,今でも全国で若い施術家の指導に当たっています。
さらなる追求、新たな施術との出会い
施術やセミナーをさせて頂きながら、私は、かつての整体へのあこがれのような感情もずっと持ち続けていました。また鍼灸やマッサージの適正や限界のようなものも感じ始めていて、その思いは日に日に強くなっていきました。
「もっとなにかないだろうか」
私は様々な模索を繰り返し、一つの治療法を形にしました。
そして、さらにその真髄を極めようと、日夜研究に励んでいます。
そして今でも日々進化していると実感しています。
私のミッション
私は今の自分にたどり着くまで、様々な道を回ってきました、確かにそれは、最短距離では無かったかもしれませんが、私の今の施術法を構成する重要な要素になっています。50歳を超え、私はこの私にしかできないこの施術を使って、沢山の方々に喜んで頂きたい、そして願わくば、この施術法が世に広まるよう活動していきたい。残りの施術家としての人生をかけてこの思いに取り組む覚悟でいます。